自分は人からどう見られてるのか、自分は人をどう見ているのか。自分を見る目、他人を見る目をめぐる人間関係の悩みはつきない。

「人の目がどうしても気になる」あなたに、哲学者の野矢茂樹氏、元結不動密蔵院の名取芳彦住職、さらに著作家の永江朗氏がお答えします。

(内容・肩書は、2017年9月18日号掲載時のままです)

Q1.なぜ私は、上司や部下の目が気になるのか?

しょうがないですよ。人間ってそういうものだもの。例えば、表通りをチンパンジーのように腰を落としてひょこひょこ歩くこと、できますか?

歩くときでさえ、私たちは人の目を気にしてるんですね。とりわけ上司や部下の目が気になる。それも、しょうがないことです。だって、多くの会社では仕事の成果だけではなく、どんなふうに仕事しているのかも、評価の対象になりますから。とにかく真面目に一所懸命やってますってとこを見せておかなくちゃいけない。

人間という社会的動物はどうしたって人の目を意識しますし、会社で働く人は上司、部下、同僚の目を意識せざるをえません。でも、それって疲れますよね。どうしたらいいんでしょう。

さっき歩き方の例を出しましたが、これが一つのヒントになります。今ふつうにやっている歩き方は動物的には不自然なのですが、私たちにとっては自然なものになっています。それは社会の中で身につけてきた自然さで、「第二の自然」と呼ばれたりします。この、第二の自然という意味で、自然体になれればいいんですね。見られているからといって心や体が妙にこわばることもなく、無駄な力を入れずに動いていける。そうなれると、いいですよね。といっても、なかなか難しい。だいたい、「自然体になろう」と意識している段階ですでに不自然体ですから。

そこで、心がけ次第で今からでもなんとかなりそうなことを考えましょう。人にどう見られるかに自分のアイデンティティをかけないようにするんです。人から何か言われても、「この人にはこういうふうに見えるのか」ぐらいに受け取っておく。言われたことを無視するというのではありません。上司に「仕事が遅い」と言われたら、やはり何か対処しないとまずい。でも、極端な場合には、ある人が悪く言ったその同じところを別の人がほめてくれる場合があります。「仕事が遅い」じゃなくて、「丁寧な仕事だね」と言われるかもしれない。そのとき、都合のいい評価だけを残して「私の仕事は丁寧でよい(喜)」と満足して終わるというのも、「私は仕事が遅いのだ(泣)」と否定的にのみ自己評価するのも、どちらも一面的です。だから、この人にはこう見えているんだなと、ある程度距離をとって受け止めて、それに対して冷静に対処する姿勢を持たなくちゃいけません。そうしないと、人の言うことに振り回されて自分を見失ってしまいます。

否定的な評価で見られてしまったとき、組織の中で生きる者としては、何とかしなくてはならないでしょう。だけど、その評価で傷つかないようにしたいのです。人にどう見られるかにアイデンティティをかけないというのは、そういうことです。ある人に否定的に見られたとしても、それはあなたの一面にすぎません。重要な一面かもしれないけれど、たんなる一面にすぎないのです。そこに全体重をかけてしまわないこと。

むしろ難しいのはほめられたときです。たまに他人からほめられることがあったりすると、そのほめ言葉に距離をとるのは難しいことです。ほめられたことに自分の全体重を、アイデンティティをかけたくなります。でもそれは、他人の批判に傷つく脆さと表裏一体のことです。ほめられても喜ぶなと言いたいのではありません。すなおに喜べばいい。だけど、そこにしがみつかないこと。

外から与えられるものに頼るばかりでは、どんどんあなたの力は弱っていきます。自分の内側から湧き出る力を強くするしかないんです。ほめられても、けなされても、それを率直に受け止めつつ、それにふりまわされずに、自分を保っていられる。――どうすればいいのかなあ。いや、最後は自分に言い聞かせているみたいになりました。

A1.人からの評価は、あなたの一面にすぎない

野矢 茂樹(のや・しげき)
哲学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。著書に『哲学な日々』など。