自分の心の中のことは、自分自身でもわからない。だから、自分の心がコントロールできず、不安や悩みのタネは尽きない。

一人で悩まず、人に弱みをさらけ出せればもっと楽なはずなのに、哲学者と禅僧に、それができない理由を聞いてみましょう。

(内容・肩書は、2017年9月18日号掲載時のままです)

Q1.なぜ私は、将来が不安なのか?

先日、ゴリラ研究の第一人者である京大の山極壽一総長と、人間の定義という話になりまして。先生はこうおっしゃった。「人間の定義は宗教を持つことだ」と。私は宗教家ですが疑問に思いましてね。その心を問うたんです。すると、「すべての生物のなかで、人間だけが『自分は死ぬ』ことをわかっている」と。

永遠の命があるなら、何があっても「将来、挽回したらええやんか」と楽観的に構えられます。でも命には限りがあるから、絶対的な不安が生じてしまう。しかもいつ死ぬか、死んだらどうなるか、わからないことばかり。だからいつまでも不安は消えない。これは仕方がないことです。

その不安から抜け出そうと人間は宗教を持ちました。生きるとは、死ぬとは、どういうことか。生き死にの問題は宗教にとって永遠のテーマですし、その答えを得たいと思う心が、宗教家の一番のモチベーションです。その答えさえ得られたら、修行は終わりと言ってもいい。

その答えはおそらくひとつで普遍のものです。しかしそれは仏教で言う「不立文字」、言葉で言い表せるものではないとされています。お茶の味を文字で書いてもわからないのと同じです。体験を通して初めて理解できることです。

今、ここで不安に対して言えることがあるとすれば、考えても仕方のないことに対して、不安を持ちすぎてはいけないということです。「他国が攻めてきたらどうしよう」と不安がっても、自分にはどうにもならないこと。備えといっても、大したことはできません。そんなことを不安がるのは、心の浪費。それよりも、今この瞬間を生きることに心を尽くすことです。

A1.「必ず死ぬ」ことがわかっているから

松山 大耕(まつやま・だいこう)
臨済宗妙心寺退蔵院副住職。東京大学大学院農学生命科学研究科修了。ダボス会議に出席するなど幅広く活躍。政府観光庁Visit Japan 大使も務める。