疲れた夫の終わらぬ苦悩は、妻のイライラとわが子の冷たい視線。なぜ、家庭には自分の居場所がないのだろうか。

誰も教えてくれない家庭の難問を、哲学者・土屋賢二氏、ノンフィクション作家・髙橋秀実氏が明るく解決いたします。

(内容・肩書は、2017年9月18日号掲載時のままです)

Q1.なぜ私は、家に居場所が見つからないか?

大学を定年で退官した後、私は毎朝、近所のコーヒーショップに出勤しています。ノートパソコンを持ち込み、そこでエッセイを書く仕事をすることもあります。

かつては「女三界に家なし」と言われました。女は幼いときは親に従い、嫁いでからは夫に従い、老いては子に従わなければならず、生涯安住の場所がないというのです。

しかし、時代は変わりました。今は「男三界に家なし」。幼少時は親に従い、結婚後は妻に従い、老いて家でゴロゴロしていては、粗大ゴミとして収集日に放り出されます。

私の友人で、妻からひと言の相談もなく知らぬうちに自宅を売られ、しかもほかの場所に新しい家を買われていたという男がいます。まったく恐ろしい世の中になったものです。

夫の定年を恐れている妻は多く、家にずっといられたら耐えられないと、彼女たちは言います。それはそうでしょう。居間にお腹が突き出て、頭の禿げた物体があったら、それだけで邪魔です。さらに、その物体が加齢臭を発するわ、動くわ、しゃべるわ、お茶を入れろと命令するわとなったら、見るたびに不愉快になろうというものです。

だから、私は軋轢を生まないように毎朝コーヒーショップに出勤するのですが、これは定年退職者に限った話ではありません。単身赴任の夫が、休暇で自宅に戻ってくるのを嫌う妻も多いですし、まして休日のたびに家でゴロゴロしている夫となれば、何をか言わんやです。ハチやカマキリのオスを見習いたい。

私は、夫婦は若い頃から、いくらか距離を置くほうがいいと思います。何でも一緒にしていると、二人は仲良し夫婦だと男は思い込みますが、それは錯覚で、おそらく妻は失望の連続だと思います。

距離を置いて、妻が未知の部分を持っているほうがいいと思います。自分をあけすけに話さず、謎の部分を残すのです。少し離れたところから眺めていれば、夫の欠点は見えにくくなるし、勝手な解釈で、いいイメージを持ってくれるという期待も持てます。

親の世話は「スープの冷めない距離がよい」と言われますが、夫婦関係を長持ちさせるためには「スープが冷める距離」くらいが理想的だと思われます。

その距離をつくり、謎めいた男になるためには、これまでにないまったく新しいことを始めるというのも手です。例えば、小説を書いて芥川賞受賞をねらうとか、新しく語学を勉強するとか、何でもいいのです。

あるいは、休日にはどんどん外に出て、仕事以外の仲間と付き合うなど、家以外の場所に自分の居場所をつくるようにするのもよいでしょう。これは非常に困難ですが、それにあえて挑戦すれば人間的にも多少は成長できます。

とまれ、結婚生活や夫婦関係に、過剰な期待を持ちすぎないようにすることを勧めます。動物のオスは本来、繁殖の役割を終えれば用のない存在です。人間の場合、女性は中年を過ぎて子供を産めなくなっても、孫の世話をするなど、まだ子孫の生存のために役立ちますが、男のほうは、お金を稼いで家に入れるくらいしか役割はなくなります。

昆虫の世界で、オスのハチは、女王バチとの交尾を済ませると死んでしまいます。男も本質的にオスのハチのようなものです。カマキリのオスも交尾のあと、メスに食い殺されると言われます。それに比べれば、人間のオスは殺されないだけ恵まれています。

私たち夫は、男らしく自分の置かれた境遇を受け入れるしかありません。それが、男に生まれた者の運命です。文句ひとつ言わず、淡々と運命に従っているハチやカマキリを見習いたいものです。

A1.本来は用なし。殺されないだけ恵まれている