職場の悩みをランキングすれば、必ず上位に入ってくる人間関係の悩み。まずは、他人の言動が気になって心が乱れるという悩みを二つとりあげます。
人の言動など気にしなければよいのに、なぜか心配したり、イラついたり。哲学者の野矢茂樹氏、元結不動密蔵院の名取芳彦住職に相談します。
(内容・肩書は、2017年9月18日号掲載時のままです)
Q1.なぜ私は、人が手柄をあげると心配になるか?
悲しい性(さが)ですよね。相対評価に晒されて育ってきたために身についた感受性です。もちろん、会社などで相対評価を受ける場合には、人の手柄が心配になるのは当然のことです。限られたパイを取り合うときに、人が大きなパイを取ってしまったら、こちらとしてはちょっと平然としてはいられません。
だけど、相対評価ではないのに人の手柄を喜べない自分がいる。これはどうにも悲しいことです。でも、こんなふうに言われるかもしれません。――だって競争社会なんだから、負けたくないじゃないか。いや、必ずしもそうじゃないんですね。
スポーツ選手のことを考えてみましょう。彼らは熾烈な競走の中で生きています。おそらく、スポーツ選手として感じる喜びの多くは勝負に勝つことにあるでしょう。でも、たぶんそれだけじゃない。自分自身がより強くなっていくこと、そのことの喜びが大きいのではないでしょうか。だから、どんな勝ち方でもうれしいわけではないはずです。自分の力をフルに発揮して勝つことにこそ、喜びを感じるでしょう。
誰かがこんなことを言っていました。勝利より敗北からのほうが学ぶことが多い。だから、前に進む人はつねに負け続けている人なのだ。勝負には勝ったとしても、あそこは相手に負けていた。だからもっとこうしよう。そうして前に進んでいく。そして、そうやって前に進むこと自体がうれしい。たぶん一流のスポーツ選手ほどそんな感覚が強いんじゃないでしょうか。
限られたパイの取り合いではない場合には、負けを前向きに受け止めることです。相手の失敗を祈るなんてことはまったく無意味なことです。
でも繰り返しますが、つらいことに、限られたパイを取り合う場合もあります。そのときには、相手の失敗を喜ぶ(心の中で密かに、ね)こともあるでしょう。だから、切り替えスイッチを持ちましょう。パイの大きさは限られているのかどうか見きわめて、必要だと判断したときだけ、相対評価モードにスイッチを切り替える。
でも、そうじゃないときまでその感覚を引きずらないように。他人の失敗を喜ぶような感性で仕事を埋め尽くしたら、敗北から学んでいくような、もっと力強い喜びを失ってしまいますから。
A1.「負けるが勝ち」の精神で、前向きに受け止める
哲学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。著書に『哲学な日々』など。
Q2.なぜ私は、早く帰る若者が嫌いなのか?
定時になると、さっさと帰ってしまう後輩。上司や先輩から飲みに誘われても、何かと理由をつけて応じない部下。昨今、そんな若者が増えているとよく耳にします。彼らにもきっと、「今夜は見たいテレビがある」とか、「業務時間外まで上司の相手をしたくない」など、言い分があるに違いありません。しかし、こちらからすれば当然、テレビなんて録画で見ればいいと思うでしょうし、時間外であっても先輩とのコミュニケーションは立派な仕事のうちだという思いがあるでしょう。
でも、上の世代が若者から少々煙たがられるのは、ある意味で当然なのかもしれません。人は経験を積めば積むほど知見を深めていくもので、お節介にもそれを教えたくなる生き物。これは実は仏教と同じ構造で、私たちは2500年にわたって頭のいいお坊さんたちが考え抜いて導き出した教えを、お経として読み上げています。人生におけるこういう場面では、こうしておけば間違えないですよ、と。
そうしたお説教も、相手に理解がなければ鬱陶しく思われてしまうことがあるかもしれませんが、先人の知恵というのは案外間違っていないものです。なぜなら、間違った考え方や方法論は、たいてい失敗体験によって淘汰されていくからです。つまり、今手元に残っているノウハウは、成功体験に裏打ちされた確かなもの。言い換えれば、身をもって学んできたことだからこそ、ジジイやババアはついつい他人にそれを口酸っぱく伝えたくなるのでしょうね。
考え方や方法論が人によって異なるのは当たり前のことです。まして、時代も世代も違えばなおさらです。年配の皆さんも、今の時代に合わせてもう少し多様性を受け入れる努力をしてもいいと思うのですが、いかがでしょうか。
例えば、東京から横浜へ向かうにも、さまざまなルートがあります。時間がかかっても運賃の安いルートを選ぶ人もいれば、乗り換えの少ないルートを好む人もいます。そこで、「いやいや、あの路線を使うと、途中の景色がすごくいいんだよ」と考えるのは、個人の価値観にすぎません。
私自身も日常生活の中で、自分とは異なる考え方、とうてい相容れられない価値観や考え方に出くわすことが珍しくありません。仏教ではそんなとき、何かを「諦める」ことで心の平穏を維持する考え方を説いています。そして、諦めるために必要なのは、事情を明らかにすることです。
例えば、早く帰ろうとする後輩がいたとしても、「彼は新婚さんだから、早く帰って手料理が食べたいのも当たり前だな」とわかっていれば、腹も立たないでしょう。
この「当たり前」と「仕方がない」こそが、諦めるための魔法の言葉だと私は考えています。「諦める」と「明らかにする」は同源であるというのが仏教的なアプローチ。「あきらめる」とはもともと、「あからめる」なのです。
こうした考え方を頭の片隅に入れておけば、そそくさと帰る後輩を目にしても、さほどイライラすることはないでしょう。むしろ、「自分だって若い頃は早く帰りたくてしょうがなかったよな」などと、共感できるに違いありません。
私も今年59歳になりますから、そろそろ寺の住職を倅に譲る時期が来ています。当然、これまでの私のやり方と息子のやり方では、異なる部分も多いでしょう。でも、息子なりに苦しみ、失敗を経ることで、ベストな道にたどり着くはずだと信じて、あまり口うるさいことを言わずに見守りたいと思っています。
A2.考え方が違うのは仕方ない、という「諦め」が肝心
名取 芳彦(なとり・ほうげん)
英語教師を経て、元結不動密蔵院住職。著書に『気にしない練習』など。