女性活躍の名のもとにきらびやかに登場しては失速していく現代の女性たちが後を絶たない。「日本初」を実現した明治初期の女性たちと何が違うのか。
「女性活躍」の世で失速する女性たち
ドイツのメルケル首相やイギリスのメイ首相、そして台湾初の女性総統・蔡英文氏など、近年、世界で新しい時代を切り拓く女性リーダーの活躍が目立っている。日本でも、政界、財界、学界において、女性が活躍する例は多い。2016年の都知事選で見事に勝利を収めた小池百合子氏などは、その代表だろう。
一方で、注目を集めた女性が失速する例も枚挙にいとまがない。小池都知事も先の衆院選では惨敗。失速の原因は異なるが、豊田真由子元衆議院議員の秘書へのパワハラ問題のほか、山尾志桜里衆議院議員や今井絵理子参議院議員の不倫疑惑なども報じられた。彼女たちは、なぜこのような事態に陥ったのか。
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新しい時代を切り拓く、という意味では、明治初期の女性活動家たちはまさにその走りです。現代女性は、彼女たちから学ぶところが大いにあるはずです。
そもそも日本において現在のような男女平等が実現したのは、明治期に男女平等に向けて努力した女性たちの存在があるからです。
たとえば津田梅子は、日本最初の女子留学生として、わずか6歳で岩倉具視遣外使節団に同行して渡米。帰国後、明治33年に女子英学塾(のちの津田塾大学)を創設し、女子教育の発展に尽力しました。シーボルトの娘・楠本イネは、日本人初の女性産科医として西洋医学を学びました。また、大河ドラマ「八重の桜」の主人公にもなった幕末のジャンヌ・ダルク=新島八重は、私も教鞭をとる同志社大学の創始者・新島襄と、日本人で初めてキリスト教式の結婚式を挙げました。
江戸時代までの幕藩体制の下では、公的な場面は基本的に男性中心に動いていました。しかし、明治維新によって日本にもキリスト教的な西洋思想や人権思想が流入してきて、女性の社会的地位の低さに対する疑問が持ち上がった。前述した女性たちは、その機運を逃さず行動し、それぞれ「日本女性初」の快挙を成し遂げたのです。
しかし、その後長く初期の理想どおりの男女平等の社会が実現しなかったことからもわかるように、明治期の女性活動家たちの歩んだ道は決して平坦なものではありませんでした。
明治維新によってほんの一時火がついた男女平等推進の動きは、政治体制が整い、富国強兵のスローガンが台頭するとともにしぼんでしまいました。富国強兵の世の中とは、軍人中心の世の中であり、当時軍人といえば男性です。となれば、必然的に女性が排除されていきます。
また、一夫一婦制、夫婦平等、愛の重要性といった儒教的な三従の教えとは異なる女性観をもたらしたキリスト教も、明治初期には男女平等思想を支える役割を果たしました。たとえば、当初キリスト教系の女学校は、『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した若松賤子らを輩出した先進的な教育機関でした。
しかし、時間とともに「妻は夫に従うもの」といった保守的な思想に寄せられて、女性にとっては社会的に活動しづらい方向へと変質しました。
そもそも明治5年に発布された「学制(日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令)」の段階で、男女平等教育の根本には「母親として妻としての能力を高めるために女子教育が必要だ」という考えがあり、明治32年の高等女学校令によって、女子教育の目的は「良妻賢母を育てるべし」と宣言されました。キリスト教系の女学校も、そうした時勢のなかで、いわゆる良妻賢母養成機関となってゆきました。
さらに、明治後半から大正初期にかけては、経済の発展によって「男性一人稼ぎ手モデル」が生まれ、専業主婦化が促進されました。女性の社会進出が衰退した背景には、女性たち自身が生計のために働くよりも、「そのほうが楽しい」という判断をした面もあります。