現代より、女性の地位がはるかに低かった時代に、炭鉱を経営し、銀行を経営、生命保険会社を創業し、日本初の女子大学創立に尽力した広岡浅子。新しい時代を把握して古いものを生かす柔軟な発想と、それを実行させる強靭な精神力。現代の日本人がこの人物から学ぶことは限りなく多い。

反対を押し切り、新エネルギーにかける

座右の銘は「九転十起」。七転八起どころか、9回転んだら10回起き上がればいいというほどですから、広岡浅子の行動力は並外れていました。炭鉱経営に銀行経営、生命保険会社の創業に日本初の女子大学設立と、明治の日本を奔走した実業家です。

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浅子といえば三井財閥のお嬢さん。しかし奉公人相手に相撲をとったり、まげをばっさり切り落としたりと、度胸のあるエピソードにも事欠きません。そして新しもの好き。浅子がモデルとなったドラマ「あさが来た」をご覧になって、浅子の颯爽としたドレス姿が印象に残っている方も多いと思います。女性といえば裁縫にお茶という時代にあって書物に親しみ、大阪の両替商・加島屋に嫁いでからはそろばんや簿記を独学で勉強しました。ビジネスにおいても先見の明が光っています。

明治維新後、新政府は「銀目廃止」という施策を発表しました。「銀目」は大阪を中心に使われていた貨幣です。新政府が新しい通貨を発行すると加島屋に両替を求める人が殺到。気前よく両替をしていたら、加島屋の資金は底をついてしまいました。加えて大名に貸した借金の証文が紙切れ同然になるなど加島屋の財政は大打撃を受けました。そこで浅子は、資金調達のため、お金を借りていた藩に単身乗り込んで直談判。乱暴者ばかりの部屋で一夜を過ごし、返済猶予の約束を取り付けたこともあります。

そんな浅子が加島屋を立て直すために考えた事業、それは炭鉱でした。国のエネルギー政策を見通し、炭鉱経営に目をつけたのです。このときから、実業家としての人生が本格的に始まります。難航し一度は手を引いた炭鉱経営を再開するにあたっては、「失敗したら自ら死ぬ覚悟」で懐にピストルを忍ばせていったというエピソードも有名です。

新エネルギーとして、浅子が目をつけ、購入した潤野炭鉱。『筑豊炭鉱誌』より。

この話を聞いた人は浅子の勇ましさばかりを想像するかもしれませんが、忘れてはならないのは、失敗の裏で鉱山学などを猛勉強していたということ。勉強の中で気づきがあったからこそ、失敗しても立ち上がることができたのではないでしょうか。

浅子の働きにより、両替商から近代的企業へと舵を切った加島屋は倒産を免れました。変化を嫌う普通の老舗にはできないことです。新しいことに手を出す浅子の性格が幸いしたともいえますが、浅子には新しいことを周囲に認めさせる情熱と説得力があったのです。その説得力は、渋沢栄一に通じる志の高さからきたものだと思います。私利私欲のなさと言い換えてもいい。

浅子は、日本初となる女子大学の設立を支援しています。子供の頃「女に学問は必要ない」と読書を禁じられた浅子は、女性が社会進出する世の中を願っていました。教育者・成瀬仁蔵の著書『女子教育』に胸を打たれると、すぐ5000円(今の価値で約2930万円)を寄付。「設立が叶わなければ自分の責任で寄付金を返済する」と宣言し、伊藤博文や大隈重信をはじめとする政財界の有力者を自ら説得してまわり、協力をとりつけました。

1899年には、朝日生命(現・大同生命)を創業。当時、生命保険は世間の理解が浅く、「人の命で商売をするのか」「生命保険会社の人間は人の寿命を鑑定する」といった誤解もあったようです。また生命保険会社の乱立により競争も激化していました。しかし浅子は、日清戦争により未亡人となった女性を助けるため、人々の生活を安定させるために、生命保険事業に進出。1902年には、朝日生命、護国生命、北海生命の3社が合併し、大同生命が誕生しました。

このときの浅子の思いを、初代社長となった義弟・正秋は「生命保険事業が他の一般営利事業と異なり、相互扶助の精神を基調とする社会公益のための事業であることに強く心を動かされた」(『大同生命七十年史』より)と書いています。経済人は利潤と道徳を調和させるべしと説いた、渋沢栄一の『論語と算盤』の考えを実践できたのは、浅子くらいだと思いますよ。

こうして眺めてみると浅子の進歩的な側面ばかりが目立つかもしれません。しかし「古いものを新しい時代に合わせて生かした」という点に、彼女の知恵があると私は考えます。生家も婚家も江戸時代の老舗。とくに加島屋は、浅子がいなければ古い商売に固執したまま時代に適応できず、潰れていたかもしれません。しかし老舗ゆえの情報力と人脈は浅子にとって大きな武器になったはず。またそうでなければ、藩に借金を踏み倒された加島屋があれだけの事業を起こせたはずがないと思うのです。

1867年に薩摩藩家老の小松帯刀が、京都の三井家を訪ねました。倒幕目的の資金調達をする密談だったと、私は思います。翌年、王政復古の大号令が出されると、三井は新政府に資金調達を命じられていますし、第一国立銀行の設立にも参画しました。つまり三井家はいち早く、幕府を見限り新政府に肩入れすることを選んでいたようです。そんな三井家の方針を浅子は事前に聞いていたのではないか。両替商に見切りをつけ、婚家を近代的企業へと転換させていく浅子と三井家は歩調を合わせていました。

大阪でも、夫の人脈を壊すのではなく、うまく利用しています。新会社をつくるときは、夫の広岡信五郎や義弟・正秋を社長にし、自分は一歩、引く。だから夫にも大阪の商人にも好かれ、大阪財界そのものを味方につけることができたのでしょう。

浅子は「したたか」なんです。たくましく進歩的で、でも女性らしさも忘れず、自分が持つ財産を全部、素直に利用しています。そうすることで新しい時代に合わせて加島屋を変化させることができた。この考え方は今の日本にこそ必要だと思います。高度経済成長期の日本は新しいものをつくることにばかり躍起で、古いものは捨てようという考えでした。でも、それも限界でしょう。今後は「日本にある良いものを生かすにはどうしたら?」という視点が必要だと思います。それを実践できた浅子は、恐竜というよりカメレオンでしょうね。環境変化についていけず絶滅した恐竜ではなく、環境に合わせ自在に姿を変えられるカメレオンです。

原口 泉(はらぐち・いずみ)
歴史学者。志學館大学教授、鹿児島県立図書館館長。鹿児島大学名誉教授。著書に『維新経済のヒロイン 広岡浅子の「九転十起」』(海竜社)などがある
 
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