人が「信用」によってお金を預け、企業が「信用」によってお金を借りる……資本主義を日本に導入し、商業にモラルが必要だと提唱した。渋沢栄一の足跡を学ぶことは、日本経済の進むべき道につながる。

資本主義が入るとモラルの低下が起きる

渋沢栄一がいなくては、今の日本は全く違う姿をしていたでしょう。渋沢は、第一国立銀行、東京ガス、王子製紙、東京海上火災保険、帝国ホテル、秩父鉄道、キリンビールなど、日本経済をリードする多数の企業や東京証券取引所の設立に関わった人物です。日本における実業の基礎をつくった最大の功労者は、渋沢といえるでしょう。

写真を拡大

1853年、ペリー来航で始まった幕末。幕府はアメリカ合衆国との不平等条約(日米和親条約)に調印。全国から討幕運動が沸き起こりました。

1840年に豪農の長男として生まれた渋沢もまた、若かりし頃は討幕の志士の一人でした。従兄の尾高淳忠に古典を学び、北辰一刀流で剣術を学んだ渋沢は20代前半、高崎藩の城を襲撃して武器を奪い、横浜で外国人を切り倒す攘夷の計画を立てます。そんな生粋の志士がなぜ、「日本資本主義の父」と呼ばれる偉人になったのでしょう。

それには3つの要因がありました。1つは「様々な人の意見を聞き入れ、考えを改める柔軟性があった」こと。高崎城の襲撃の際も、京都での見聞から反対意見を持った従兄の言葉を聞き入れ、中止にしています。また、もともと実家が農業の傍ら商売をしていたことに加え、渋沢自身も武士、官僚、実業家と様々な職業に就きました。そのおかげで多様な立場を理解する器量が身についていきました。広く情報を集め、その中から一番いい選択をすることで、何度も困難を乗り越えています。

2つめは「ヨーロッパの資本主義経済を“自らの目”で見た」こと。一橋慶喜に仕えた後、パリ万国博覧会の使節団の一員として渡仏します。そこで「信用」によってお金が回り、産業や経済が成長していく資本主義の仕組みを知り、衝撃を受けます。

1867年のパリ万国博覧会には、将軍徳川慶喜の弟・昭武や薩摩藩の家老・岩下方平らが派遣された。日本の軽業師も参加し場をわかした。

幕末の志士たちはもともと、政治改革により日本をよくしたいと考えていた人たちでした。このため、明治維新後は、その多くが政治家になりました。しかし、ヨーロッパでの見聞をもとにして、渋沢だけは、経済こそが近代化の基盤であると見抜いたのです。そこで彼は、日本に資本主義や実業界を導入し発展させることに邁進します。

発展途上国が急速な近代化を目指す場合、国が政策的に特定の産業の成長を促し、資本を集中投下していきます。その結果、政府系企業や財閥だけが巨大化しがちになり、他の産業、企業が育ちにくくなるという問題が生じます。日本に非政府系、非財閥系の民間企業が多数育ったのは、渋沢が実業界をある意味で設計し、運用したからです。

渋沢は、様々な産業に、フランスで学んだ「株式会社」を作りました。今でいうエンジェル投資家のように、多数の株式会社の設立に関わり、私財を投じて自らも株主となり、自らもプレーヤーとして経営に携わりました。その数、約500社にも及びます。そして、それにもかかわらず、彼は自分の財閥を作りませんでした。

同時に渋沢は、近代的な銀行も作りました。質入れしてその価値の分だけお金を借りるのではなく、人が信用によってお金を預け、企業が信用によってお金を借りる。それにより経済が回っていく仕組みを作ったのです。さらに証券取引所を作り、一般の人が企業に投資し、企業がその資本を基に事業を拡大し、利益を投資家に還元する仕組みも作りました。渋沢はまさしく「日本の資本主義の父」「実業界の父」と呼ばれる役割を果たしていきました。

そして3つめの要因が、「道徳」を重んじたことです。伝統的な社会に資本主義が入ると、モラルの低下や混乱が残念ながら必ず起こります。お金のインパクトが強すぎて人々が拝金主義になってしまうからです。契約をきちんと守らなかったり、パクリ商品が横行するといったことが起こるのです。

当時の日本も例外ではありません。明治時代の日本は、欧米から「商業モラルが最低クラスの国」という評判を受けていました。渋沢は1902年に欧米を歴訪した際、イギリスの商工会議所の会員から、「日本の商人はインチキばかりして、まともな取引ができない」とクレームを受けました。ショックを受けた渋沢は後に、「義利合一」や「道徳経済合一」を熱心に唱えるようになります。これは、もともと渋沢が日本に導入しようとしていた資本主義が、信用をもとにして経済を回すものであったこと。さらには「企業の目的が利潤の追求にあっても、根底には道徳が必要であり、公共に対して責任を持たなくてはならない」という考えによるものでした。

渋沢は、設立に関わった企業をはじめとして日本社会全体にその考えを浸透させようと努力しました。

こうした渋沢の思想の根底にあったのは、孔子の『論語』です。孔子の教えの中に「人はいかにして“信”を得られるのか」を説いたものがあります。その一つに「其の身正しければ、令せざれども行わる。其の身正しからざれば、令すといえども従わず」という言葉があります。「人の上に立つ人間の行いが正しければ、下の人間は命令せずとも実行する。自分の行いが正しくなければ、命令しても下は実行しない」という意味です。

渋沢はその言葉通り、私心を捨てて、ひたすら日本の発展のために尽くしました。たとえば、晩年まで、彼を訪ねてくる者があれば、時間の許す限り誰とでも会い、自分宛ての手紙はすべて自分で読んだそうです。

さらに彼は、経済活動ばかりではなく、社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わりました。また、教育を重視した渋沢は、一橋大学など多数の学校の創設や維持に関わっています。人材を育てることが国を反映させるもとであると考えての行動でしょう。

守屋 淳(もりや・あつし)
中国文化評論家。訳書に『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一著)、著書に『図解 ビジネスに絶対使える! 「論語」入門』『「帝王学」講義―中国古典に学ぶリーダーの条件』など。
 
次の講義を見る