日本三大財閥の中で、最初に名前があがる三菱を一代で築いたのは、岩崎弥太郎。土佐の極貧武士の出だった弥太郎は、たとえ金勘定自体が下衆なものと言われても、いいと思ったものは何でも取り上げた。現代のビジネス界も、その商才と決断力に学ぶものは大きい。

参勤交代を見て、徳川の終焉を確信

三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎は土佐藩の地下浪人じげろうにんという身分の非常に低い武士でした。

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上級武士から屈辱的な差別を受け、農民からも蔑まれるほど貧しかった弥太郎は、明治維新の数年前に知人から岩崎という苗字を買いました。苗字すらも持っていなかったのです。

今では「三菱、三井、住友」と、日本三大財閥の中でも最も先に名があがる三菱ですが、江戸前期から200年以上続いた豪商の三井、住友と違い、1870年に弥太郎が36歳で創業するまで存在すらしませんでした。それから弥太郎が三菱を巨大な財閥にするまで、わずか15年。弥太郎はなぜ、それほどの成功を成し得たのでしょう。

貧困と差別のなかで強い反骨精神を持ち、立身出世を志した弥太郎が選んだ道は、まずは学問を究めることでした。武骨に見える弥太郎ですが、幼少期の強い向学心と明晰な知性を認められ、土佐で最も高名な儒学者、奥宮慥斎に学びます。そして奥宮の出府に随行し江戸に行きます。

江戸で豪華絢爛たる大名行列を見た弥太郎は、「あんな形ばかりのことに力を入れ、いつまでも太平の夢を見ているようでは、もう徳川の天下も末ではありますまいか」と奥宮に言い放った。それはペリー来航の後、アメリカに開国を迫られ、安政の大獄へと繋がる弾圧政治が始まった頃でした。弥太郎は幕府と幕臣のあまりの危機感のなさに失望したのです。

その後、江戸で高名な儒学者の下で学問を続ける弥太郎が、稀代の事業家へと転身した転機はなんと、木こりに算術を教わったことでした。父が土佐で暴力事件を起こし、帰郷して父を助けるために奔走した弥太郎も投獄されました。その牢獄のなかで、同室にいた木こりに算術を教わるのです。

それはおそらく、材木の取引に必要なごく初歩的な算数だったでしょう。しかし弥太郎は開眼したのです。日本一の学者に儒学を学んでいた弥太郎が、木こりに算数を教わるというのはじつに奇妙に聞こえますが、当時、日本に算数ができる武士はほとんどいなかった。なぜなら金勘定というものは、身分の低い商人風情がやるもので、武士道にもとる下衆なものであるとされていたためです。そういった世の中の風潮に流されず、いいと思ったものは取り入れる姿勢が、弥太郎を成功者へと導いたのだと私は考えます。

弥太郎はこの「牢獄の算術」に磨きをかけ、出獄後、財政難に陥っていた土佐藩の参政、吉田東洋に召し抱えられ、土佐藩の経済官僚としての役割を担うことになります。

長崎を訪問し、これからは海運業が伸びると考えた弥太郎は、明治政府によって商取引が自由化されると、1870年、三菱の前身となる九十九商会を立ち上げます。土佐藩の船3隻を借り、東京―大阪、神戸―高知間の海運を始め、翌年にはそのうち2隻の払い下げを受け、自社の船を持つのです。

三菱が躍進したのは、1874年の台湾出兵と、1877年の西南戦争でした。明治政府は台湾出兵に際し、10隻の大型船を購入。出兵を主導した大久保利通は、国策会社として設立した日本国郵便蒸汽船会社に兵糧武器を輸送させようとしましたが、同社はさまざまな理由をつけてこの要請を受けようとしませんでした。

西南戦争に向かうため、横浜港に集まる帝国陸軍。

業を煮やした大久保は弥太郎を呼びつけ、この輸送を依頼。彼はその場で決断します。大きな決断をすぐにできたのはなぜか。それは、猛勉強による知識の多さと人脈を駆使した情報収集です。彼は好奇心が強く、“情報感受性”に長けた人物でした。そして台湾出兵は成功し、三菱は政府の助成を受けるようになります。ほどなく解散した日本国郵便蒸汽船会社の船18隻は、三菱がすべて無償で譲り受け、「郵便汽船三菱会社」に改名。さらに西南戦争の兵糧武器輸送を一手に引き受け、大きな利益を得ました。瞬く間に日本の海運業のトップにのし上がるのです。

ここまでの話を聞けば、弥太郎の成功は、貧しい生まれからくるハングリー精神と牢獄の算術が掛け合わさって生まれた士魂商才と、持ち前の決断力によるものに思えるかもしれません。

しかし弥太郎にはそれだけではなく、物事の本質を見抜く力と、類まれなるベンチャースピリットがあったと私は思うのです。例えば、日本最大の海運会社になった三菱から、英国の大手海運会社P&O汽船が三菱の仕事を奪っていったことがあります。多くの人が賃金競争に負けたのだと思ったことでしょう。しかし実際は、同社は荷主に対して、小切手を使った「荷為替」というサービスを提供していたのです。簡単にいえば、輸送費の支払いを輸送完了後の支払いで済ますサービス。荷主にとっては、商品を売った収入の中から運賃を払えばよいため、キャッシュフローが楽になる。それがP&O汽船が掴んだ顧客ニーズだったのです。

弥太郎はこの本質を即座に見抜き、銀行と保険会社を設立します。三菱銀行と東京海上火災です。三菱は銀行と保険という二つの金融サービスで、顧客のキャッシュフローを楽にすると同時に安心も提供することで顧客を奪い返し、P&Oを日本撤退させたのです。運輸ビジネスにとって価格競争は本質ではありません。キャッシュフローと安心を提供することが本質であると考えた弥太郎に軍配が上がったわけです。

弥太郎は51歳でやや短い生涯を閉じましたが、三菱財閥を今に続く盤石なものにした理由が、人材育成であったことも付け加えておきます。

彼自身もものすごい勉強家だったのですが、九十九商会を立ち上げたばかりの1872年、弟・弥之助(三菱財閥2代目総帥)をアメリカ留学させました。さらに長男・久弥(同3代目総帥)を米ペンシルベニア大学ウォートン・スクールに、弥之助の長男・小弥太(同4代目総帥)を英ケンブリッジ大学に留学させています。どちらも世界の超名門です。そして彼らも周りに優秀な人材を集めていったのです。

弥太郎は、地下浪人から日本一の事業家に上り詰めた経験から、算術を学び、世界経済の先端に触れることこそが経営の本懐だと知っていた。そして、子弟たちにその経験を積ませ、彼らも人材育成を怠らなかったからこそ、三菱は揺るぎない財閥を築けたのです。

米倉 誠一郎(よねくら・せいいちろう)
一橋大学名誉教授、同大学イノベーション研究センター特任教授。2009年より日本元気塾塾長。『イノベーターたちの日本史―近代日本の創造的対応』など著書多数。
 
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