仕事に追われつつ時折ふと感じる、時代からの取り残され感。
その穴埋めのために、やるべきことは多々あるはずだが、そこには「温故知新」ともいうべき、古くて新しい逆説があった。
“次の時代”に行けなかった龍馬・信長
「時代遅れ」をことさら意識したり、新しいものを取り入れようとすればするほど、逆に時代遅れになりかねないと考えている。たとえば、書店に並ぶ書籍。「時代遅れにならないもの順」に序列をつけるなら、書かれた年代の古いもの順になるに違いない。
日本なら『古事記』『日本書紀』、海外なら『旧約聖書』『新約聖書』や、ローマ軍を率いたカエサルによる『ガリア戦記』などは、「時代遅れ」とは無縁の存在だ。ユリウス・クラウディウス朝時代のローマ帝国の政治家であり、哲学者・詩人でもあるセネカの著作を「時代遅れだよ」という現代人もいないだろう。
そうした書物から順に並べていって、一番時代遅れになる書籍はといえば、出版年月が最も新しいものである。
目新しいものばかり追いかけると、どうなるのか。歴史上、新しもの好きの一人として知られているのが坂本龍馬。事の真偽はともかく、エピソードとしてよく語られる話がある。北辰一刀流の剣の使い手だった龍馬が、友人に「これからはこれだよ」と懐から拳銃を出した。後日、「俺も拳銃を買った」と言う友人に、「いや、もう拳銃は古い」と『万国公法』の一冊を見せた。
それほど時代の最先端を追い求めたのに、龍馬は次の時代へ行けなかった。生きて明治期を迎えたのは、山縣有朋や伊藤博文である。戦国期の織田信長も新しもの好きだったが、次の時代へ行けたのは徳川家康だ。
ビジネスの現場で使われる最先端のキーワードも、あっという間に使い古され、“痛い言葉”と化す。ユビキタス、フリーミアム……。10年もすれば、「ビットコイン」「イーサリアム」「ブロックチェーン」など口にするのも恥ずかしくなっているかもしれない。
一方、たとえばビジネスの会食の場で「マキャヴェッリは『君主論』の中でこんなことを言っていますね」「カエサルは『内乱記』の中でこんな決断をしていました」という話なら、10年後でも20年後でもずっと使える“ネタ”だ。
なにも最先端を追う進取の気性を否定するつもりは毛頭ない。ただ、メディアやマーケティングの領域に身を置いていると、次から次へと新しいコンセプトが生まれ、デジタル技術も時々刻々と変化する。その世界で働いている人々がマッチポンプのように新しいものを出しては燃やし、出しては燃やし……。そこに気を取られすぎると、本質を見失いかねないのだ。
私が出会った経営者の中で「バランスのとれたリーダーだな」と尊敬せずにいられない人というのは、知識を入れる構造が二階層になっているように見える。
一つは、必ずしも実利的とはいえないが、古典や歴史から吸収した知識の層。そこには、人間の本質、物事がうまく運ぶときと運ばないときの根本が含まれている。たとえば紀元前に生きたソクラテスやプラトンの言葉になぜ今、我々が共感するかといえば、「ああ、あの時代もそんなに生きにくい世の中だったのか」と思えるから。夏目漱石だって「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」と言っている。セネカは怒りの無益さを説いている。そうした処世術の基本となるものは古典が教えてくれる。コンピュータのアーキテクチャでいうとOSのようなものだ。
もう一つは、アプリのような役割を担う知識の層。マーケティングやデジタル技術などの最先端の情報を絶え間なく吸収し、取捨選択して、実際に使えるツールと判断すれば即取り入れる。そこには「自分が持っている知識や経験はすでに古いかもしれない」という疑念や探究心があるから、少し前の自分の経験談を振りかざして周りに迷惑をかけることもない。世の中が変化すると役に立たなくなるようなものについては、自ら白紙に戻す。そうした判断ができるのは、OSの部分を分厚く持っているからこそだ。