日本一の金融王と言われた安田財閥の安田善次郎。富山藩の貧しい下級武士の出自から、ハダカで幕末、明治、大正を生き抜き、成り上がつことができた。その成功のための3つのポイントとは。

新貨幣を買い占め、巨大な利益を得た

みずほフィナンシャルグループの礎を一代で築いたのが、安田善次郎です。生家は富山藩の貧しい最下級武士。21歳で江戸に出て、玩具などの店で丁稚奉公。いくつかの職を経て両替商を開業し、大銀行家となりました。

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なぜ、ハダカ一貫で幕末から明治、大正という激動の時代を生き抜き、日本一の金融王にまで“成り上がる”ことができたのか。ポイントは3つあります。まず1つ目は、人々が驚くほど「大きな目標」を立てたことです。「自分は千両の分限者になる」。これが善次郎の口ぐせです。分限者とは、金持ち、資産家のこと。善次郎の家は武士の身分を買い、武士階級にもぐりこんだ「半士半農」。貧しさゆえ、善次郎も農作業や野菜の行商で家を助けました。読み書きそろばんに秀でた善次郎は、写本の仕事もこなしました。

その中で、豊臣秀吉が天下統一を果たす物語『太閤記』を読み、「自分も秀吉のような存在に」と志を抱くのです。その強い気持ちは「本物」でした。

善次郎は江戸に行くために富山から約100里(約400キロメートル)を歩き通します。それも、通行手形がなかったため関所を通行できず、険しい山道を行ったのではないかと思われます。命がけの上京を実現できたのも、「分限者に」という大きな目標があったからでしょう。ただ漫然と丁稚奉公する者が多かった中、常に自分が立てた目標を見据えて彼は行動しました。いい意味で“成り上がり精神”を持ち続けたからこそ、日本一の金融王になれたのだと私は考えます。

2つ目は、儲け方の「センス」です。善次郎は両替商を始める前に、日本橋で乾物商をします。当時、この業界では値切り合戦が盛んでした。しかし、彼は「いい商品を、できるだけ安く」。でも、おまけは一切しませんでした。乾物の表面の汚れをきれいに取り除き、良質な包み紙で手渡しする。値引きより、心を込めて「いいものを安く」。それこそが客の信用を勝ち取る最大の方法だという商人としてのセンスが備わっていたのです。しかも、経費を切り詰め、客に還元する。現代にも通用する試みもしていました。

両替商としてのセンスも突出していました。商人の中には小銭ばかり集まって困っている人が少なくない。そこで善次郎は荷車で店を回って小銭を両替し、地道に手数料を稼ぎました。そうやって儲けを出し、両替商として店を構えた彼は、小判の包み替えの業務を積極的に行いました。市中に出回る金や銀の小判の真贋を判定し、一定の枚数で封印する作業です。贋金リスクが高いため、同業者は敬遠していたのですが、小判の真贋判定が得意の善次郎はあえて引き受け、高い信用を得ることに成功したのです。確かなスキルと、ニッチなビジネスを嗅ぎ付けるセンスで信用と利益を生み出したのです。

3つ目は時代と情報に関する「感度」のよさです。小判はすべて金でできているわけではありません。金と銀を定められた混合比率によりつくられます。幕府は財政状況によりこの混合比率を変えるわけです。財政が厳しくなると金を少なくした悪貨をつくります(=「吹き替え」)。そのため、金の含有率によって小判の相場が上下する。両替商には、小判の真贋(金の含有率)を見極める力が求められます。その判定には、硯のような那智黒という石に小判をこすりつけ、残った痕を基準となる痕と照合する方法があります。善次郎はこの方法だけでなく、独自の見極め方を持っていました。金山、銀山から運ばれてきた地金を精錬する金座、銀座の職人から、「吹き替え」される時期などのインサイダー情報を得ていたのです。

善次郎の店・安田屋(のちに安田商店と改称)が最も飛躍したのは、明治時代に入って、新政府が最初の紙幣である「太政官札」を発行したときでした。

激動の時代です。新紙幣の価値は低く、多くの両替商は扱いたがりませんでした。両替商が預かった太政官札は最初は100両につき80両の価値がありましたが、その後、39両にまで下落。担保流れにした両替商さえありました。

しかし、善次郎は新政府の官僚からも情報を得ていました。いずれ、太政官札が正規の価値(額)で国に買い取られると予測し、多くの太政官札を買い集め、巨大な利益を得たのです。以前、怪しい筋の金儲け話にうっかり乗ってしまい、大損した経験が善次郎にはありました。それはまさに「投機」。でも今回は手痛い失敗を糧にし、確かな筋からの情報を得て「投資」をした。顧客第一、信用第一を貫く善次郎には、いざというときに役立つ情報を提供してくれる人々とのパイプがあったからできたことです。

新政府が発行した「太政官札」。善次郎が買い占めた。

江戸時代の身分制度「士農工商」が依然として残っていた中、商人という、いわば“格差のどん底”からはい上がり、国内屈指の金融業者となった善次郎。しかし、彼のことを「吝嗇(ケチ)」と蔑む向きも少なくありませんでした。銀行家として、相手が合理的で実現可能な堅実な業績・返済プランを持っていなければ融資しなかったからです。しかし、多くの倒産寸前の銀行を助けるだけでなく、「陰徳を積め」との父親の教えを誠実に守り、東京大学の安田講堂など巨額の寄付もしています。

善次郎には生涯守り抜いた「誓い」がありました。1つ目は「独立独行」、人に頼らず懸命に働く。2つ目は「嘘は言わない」。3つ目は「収入の2割は貯蓄する」。3つの誓いを死守し、よく働き、せっせと貯蓄する。座右の銘は「ちりも積もれば山となる」「千里の道も一歩から」です。周囲から見れば、「おもしろい人間」とは映らなかったでしょう。しかし、こうした勤勉・質素・倹約こそが金儲けの王道であるのは、昔も今も変わることはないのです。

江上 剛(えがみ・ごう)
作家。旧第一勧業銀行(現みずほ銀行)在籍中に書いた『非情銀行』で小説家デビュー。著書に善次郎の生涯を描いた小説『成り上がり 金融王・安田善次郎』(PHP文芸文庫)がある。
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