常に無欲で、淡々と仕事を進めていく姿勢。あるいは、ギラギラとした大きな野望とともに貪欲にものごとに取り組んでいる姿勢。それらは、どちらも大切なものでしょう。プロ入り当初の野村克也さんは、「とにかく貧乏から抜け出すんだ」と大きな欲を持ってプレーしていました。しかし、ある時期から「欲望にとらわれすぎてはいけない」と気づき、自らを戒めることになるのです。心境の変化は、どうして起こったのでしょうか——。

「欲望」にまつわる『徒然草』の一節より

読書家で、勉強家でもあった野村克也は『徒然草』を愛読していた。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての歌人であり、名随筆家でもある吉田兼好のこの作品の一節に、「大欲は無欲に似たり」という言葉がある。原文では、ある大金持ちが説いた「金持ちになる方法」に対して、作者の兼好法師が発した言葉として紹介されている。

興味深いのは、その解釈が2通りあることだ。ひとつは、「大きな欲を抱いている人は、小さな欲などには目もくれない。だから、一見すると無欲に見える」という考えだ。そしてもうひとつは、「強欲過ぎる人は、それに惑わされて損をすることになり、無欲と同じような結果になる」というものである。

まったく意味の異なるふたつの解釈があることについて、野村は「現代まで解釈がふたとおりあるということは、どちらも正解なのだろう」と述べている。それを受けて、「そもそも、人間という生きものは欲の塊である」とも口にしている。

若い頃の野村は、「プロでどうにか成功したい」「大金をつかんで貧乏から抜け出したい」「病気がちな母親を少しでも楽にしたい」と、まさに欲望の塊だったという。だからこそ、「欲がなかったら、人は動こうとはしない」と、欲望そのものを否定する発言はしていない。むしろ、肯定的に捉えている。しかしそのうえで、「欲は人を惑わせ、平常心や冷静さを失わせる要因となることも肝に銘じておかなくてはならない」と釘を刺している。