学生時代までは学校のテストのため、社会に出てからも資格試験のためにと、多くの人が「記憶」と向き合ってきたと思われます。しかし、記憶が力を発揮するのはそういった試験の場だけではなく、仕事のアイデアや効率化にも寄与すると語るのは、「記憶競技」で世界レベルの結果を残してきた池田義博さん。記憶のスペシャリストが考える、記憶力の重要性はどんなところにあるのでしょうか。

かつてはまったく記憶に興味がなかった

いまでこそ「記憶の専門家」として活動しているわたしですが、実はもともと記憶することが得意だったわけでも記憶に興味があったわけでもありません。大学は工学部で、卒業後はエンジニアとして働いていました。

転機が訪れたのは、エンジニアになって10年くらい経った頃。父親に不幸があって家業を継ぐことになったのです。その家業というのが、学習塾の経営でした。暗記――つまり、記憶とは切っても切れない関係にあります。

そこで、塾のカリキュラム作成に活かそうと記憶について自分なりに調べたり学んだりした結果、記憶そのものに対する興味が強まっていきます。そんなときに知ったのが、記憶力を競う大会があるということでした。

当時のわたしは40代半ば。人生の折り返し地点に差し掛かっていて、「このままの人生でいいのか?」「勝負できることはないのか?」などと年がいもなく考える中年でした……(苦笑)。そこで、記憶力のトレーニングを1年間続けて記憶力日本選手権大会に挑戦し、もし箸にも棒にもかからなければ、記憶競技にのめり込むことはやめて学習塾の経営に専念しようと決めたのです。

すると、結果はなんと優勝です。その後も出場した日本選手権大会すべてで優勝し、トータル6回の優勝。オーストラリアで開催された大会でも優勝したり、世界大会で「記憶力グランドマスター」という称号を得られたりもしました。

記憶力を競う「記憶競技(メモリースポーツ)」とは

そういった記憶競技で行う種目は様々です。なかでも多いのは、数字を覚える種目でしょうか。例えば、円周率のようにランダムで並んだ数字を短時間で覚えるという種目や、1時間かけてなるべくたくさんの数字を覚えるという種目があります。あるいは、1秒間隔の音声で聞かされたランダムの数字の並びを覚える種目、「001101010……」のように0と1の並びを覚えるというものもあります。

ほかには、「無作為の単語」といって、「パンダ、パトカー、ヘッドホン……」など無作為に抽出された単語を覚えていく種目に、人の顔と名前を覚える種目も存在します。例えば、9人分の人の顔と名前がセットで並んでいるたくさんの問題用紙を見て、解答時間になったら今度は問題用紙とは並びがバラバラになった顔写真だけの解答用紙に名前を書き込んでいくといった内容です。

面白いところでは、「架空の年表」という種目もありますね。例えば、「1983年に火星人襲来」とか「2038年にミッキーマウスがアメリカ大統領に就任」といった、その名のとおり架空の年表を覚えるという種目です。

わたしが獲得した「記憶力グランドマスター」という称号は、世界大会において一定の条件をクリアした人に与えられます。つまり、「世界一」を示すものではないのですが、もちろんそう簡単に獲得できるものではありません。

その条件とは、「シャッフルした1組52枚のトランプの並びを2分以内に記憶する」「シャッフルした1組52枚のトランプの並びを1時間かけて10組以上記憶する」「ランダムな数字の並びを1時間かけて1000桁以上記憶する」という3つです。

記憶力は、才能ではなく「技術」で決まる

こういうと、わたしのことを「特別な才能を持っている人間」のように思う人もいるでしょう。でも、最初にもお伝えしたとおり、わたしはもともと記憶が得意だったわけではありません。

では、そんなわたしがなぜ記憶力競技で優勝できるような記憶力を手に入れることができたのか? それは、記憶のメカニズムを理解し、覚えやすく思い出しやすくなる記憶術を使っているからです。

つまり、記憶とは「技術の世界」だということ。記憶力に違いが出る要因は、その技術を知っているか、そして使えるかということだけなのです。

人間の脳の容量には多少の個人差はあったとしても、その差はそれほど大きいものではありません。ということは、記憶できる量も人によって大きな差があるものではないと考えるのが自然でしょう。

けれども、情報を脳に入りやすいかたちにする、あるいは情報を脳から取り出しやすいかたちにする、その加工処理の仕方で、記憶力に違いが出てきます。その加工処理の仕方こそが、記憶の技術です。

「きちんと覚えようとする」だけで、結果は大きく変わる

ここではその技術について詳しく解説することは避けますが、記憶することに苦手意識を持っている人には、まず何よりも「きちんと覚えようとする」ことを心がけてほしいと思います。そうするだけで、記憶の定着率が大きく変わるからです。

記憶には3段階のプロセスが存在します。それは、「記銘」「保持」「想起」の3つです。記銘は情報を「覚える」段階、次の保持が情報を「覚えておく」段階、最後の想起が情報を「思い出す」段階です。

心理学的見地からいうと、これら3つのプロセスを経たものがようやく記憶と呼ばれるのです。

そして、「わたしは記憶力が悪くて……」という人は、最初の段階である記銘をおろそかにしていることが多いというのがわたしの見立てです。「わたしにはどうせ覚えられない」という気持ちから、無意識のうちにきちんと覚えようとしていないというわけです。

覚えようとしていないのですから、その情報を覚えること(記銘)もできなければ、もちろんその先にある、覚えておくこと(保持)、思い出すこと(想起)もできません。

ですから、記憶に苦手意識を持っている人の場合、わたしのような専門家が提唱する記憶術を試すことももちろん有効ですが、それ以前にただ「きちんと覚えようとする」だけでも結果が大きく変わってくるのです。

「新しいものを生み出せる」からこそ、記憶力は重要

この記事を読んでくれているということは、「記憶するのが苦手」だと思っている人のほかに、記憶に重要性を感じている人もいるのでしょう。

では、記憶の重要性とはどんなところにあるのでしょうか? 例えば、資格試験に向けて勉強している人なら、深く考えるまでもなくその重要性を痛感しているはずです。勉強でインプットして記憶したことを、試験においてアウトプットするという力は確かに重要です。

ただ、わたし自身は、インプットしたものをそのままのかたちでアウトプットするだけの能力が記憶力だとしたら、その力の価値は人間にとってそれほど大きくないと考えます。もちろん試験の場では有効かもしれませんが、日常の仕事や生活のなかでは、そんなことはパソコンやスマホなど機械に任せておけばいいからです。

わたしが記憶力に価値を見出すのは、「新しいものを生み出せる」からです。仕事のアイデアにしろ自分なりの考えにしろ、そうした新しいものを生み出せるのは、どんな仕組みによるのでしょうか。

頭のなかが空っぽでは、おそらく何も生み出すことはできないはずです。新しいアイデアや考え、概念といったものは、すでに頭のなかにある知識や情報が、あるとき組み合わさって化学反応を起こし、ポンと生まれてくるのだと思います。

そう考えると、新しいアイデアなどのもととなる知識や情報は、確率論からいっても多いに越したことはありません。だからこそ、特にビジネスパーソンにとって、多くの知識や情報を頭に入れておくための記憶力が重要なのだと思います。

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